小説「新・人間革命」加速  1-38

             

加速 一

 

 一九六二年(昭和三十七年)「勝利の年」が開幕して以来、布教の波は一段と加速していった。

 そして、そのスクラムと自信に満ちた足跡は、全国津々浦々に広がり、人間がいるところ、そこには、必ず、広宣流布の旗が翻るようになっていった。

 会員の行動は、まことに地味であった。日々、黙々と動き、いかなる不幸の人のもとへも、荒れ果てた大地にも、妙法の使者となって懸命に足を運んだ。

 それは、見栄を張った人間や、人目を気にする上品ぶった人や、名誉と地位を欲して虚栄の一日一日を過ごしている人には、とうてい想像のつかない、尊い作業であった。

 ――ここに、真実の仏法があり、真実の人間主義がある。

 福岡市の博多港に突き出た埋め立て地の一角に、トタンを打っただけの粗末な掘っ立て小屋のような家が密集する“ドカン”と呼ばれる地域があった。

 今日ではビルが林立し、当時の面影はないが、以前は、周辺の人びとが足を踏み入れることも憚る地域であった。

 この辺りは、戦後しばらくは住む人もなく、埋め立て地を縦断する道路の脇に倉庫が点在していたほか、製氷工場が、ぽつんと建っていたにすぎなかった。

 だが、ここに、いつのころからか大きなドカン(土管)が放置され、そこに人が住み着くようになった。戦災で家をなくした人もいれば、職を失い、流れ流れて、ここに来た人もいた。

 ドカンの中は、人が腰をかがめて、入れるぐらいの大きさであった。その両側にムシロをかけ、“我が家”としたのである。

 やがて、ここに住み着く人が増え、ドカンに替わって、木材やトタンを集めて来ては、掘っ立て小屋を建てるようになった。

 そして、戦後、数年を経たころには、一帯はそんな“家”で埋め尽くされていった。当然のことながら、皆、“無断建築”である。

 “ドカン”地域の内部は複雑極まりなかった。好き勝手に建てた“家”がひしめき合い、道は狭く、太陽の光も差さなかった。そこは、政治の光さえ差すことのない、日本の社会の日陰でもあった。

 治安も悪く、窃盗、喧嘩は日常茶飯事で、流血事件も絶えなかった。真っ昼間から、あちこちで賭博も行われ、酒を密造している人もいた。

 アルコール中毒、ヒロポン中毒に侵され、その禁断症状に苦しむ人の姿も、よく見受けられた。

 手配中の容疑者も、ここに逃げ込めば、捕まらないとまで言われていた。

 

 

加速 二

 

 周辺の地域の人たちは、子供によく言い聞かせなければならなかった。

 「あんた、よかね。絶対に“ドカン”には入ったらいかんとよ」

 しかし、この無法地帯さながらの“ドカン”地域にも布教の波は及び、“異変”が起こり始めていたのである。

 ここに、メンバーが誕生し始めたのは、一九五四年(昭和二十九年)ごろのことであった。

 その一年ほど前から、松本タツという、“ドカン”地域の近くに住む、一女性が、“この人たちに幸せになってもらいたい”との思いで、顔見知りになった人の家に折伏に通い始めた。

 しかし、最初は、誰も彼女の語る仏法の話に、耳を傾けようとはしなかった。

 住人の多くは、人生の辛酸をなめ尽くし、希望もなくし、自暴自棄になっていた。皆、人に裏切られてきた過去の苦い経験から、人間不信にも陥っていたのである。

 それだけに、信心をすれば必ず幸福になれるという彼女の話は、裏のある見え透いた“うまい話”にしか思えなかったのであろう。

 しかし、彼女は諦めなかった。

 誰だって幸福になる権利がある。御本尊様は、それを保証してくださっている――その確信に燃えて、彼女は唱題を重ねては、粘り強く、多くの人と対話を続けた。

 そして、遂に、一人、二人と、彼女の弘教が実り始めるのである。

 入会し、信心に励むようになった人たちは、暗かった表情も明るく変わり、生活のうえで、さまざまな功徳の体験が生まれた。

 身近に信仰の実証を目の当たりにした“ドカン”の人びとは、仏法の話に素直に耳を傾けるようになっていった。

 更に、各地の同志も、ここに住む友人に弘教に訪れ、この地域の広布の水かさは着実に増し始めた。

 一九五六年(同三十一年)には、会員世帯は三十世帯に、翌年には六十世帯に、その次の年には百五十世帯になり、この六二年(同三十七年)ごろには、四百数十世帯にまで達していたのである。

 地域柄、住民登録をしない人も多く、地域全体の世帯数は不明であるが、居住していた会員の話では、“ドカン”地域の半数以上が信心をしたようである。

 朝になると、至る所から勤行・唱題の声が聞こえ、元気に仕事に出かける人の姿が目立つようになった。

 夜には、あちこちで座談会が開かれた。狭い、小屋のような家は人であふれ、体験発表にわき、明るい笑い声が響いた。

 

 

加速 三

 

 “ドカン”地域の学会員の増加とともに、児童の就学率も次第に上昇していった。また、何よりも、警察が驚嘆するほど、犯罪の数が減り始めたのである。

 闇のなかを生きてきたこれらの人びとの心に、希望の光を注ぎ、生きる勇気をもたらす力となったのが信仰である。

 創価学会の最大の偉業は、苦悩する民衆のなかに分け入り、現実に、そうした一人一人を蘇生させてきたことにある。

 この“ドカン”地域に住み、やがて地区部長として活躍することになる井村久幸も、仏法によって人生を蘇生させた一人であった。

 彼が、ここに住み着いたのは、一九五四年(昭和二十九年)の正月、三十七歳の時であった。

 井村は、以前は、炭鉱会社の経理担当者として、将来を嘱望されていた。しかし、長年、小康を保っていた喘息が悪化し、仕事をすることができなくなった。

 発作が起こり、仕事に出られぬ日が増え、やがて、長期欠勤の末に解雇されてしまったのである。

 彼には、妻と、八歳の長男を頭に、五歳と二歳の、三人の男の子がいた。

 しばらくの間は、会社の温情で社宅に住むことができたが、それにも限界があった。そのうち、家賃の滞納が続き、年の瀬に、一家で遁走したのである。

 行くあてもなく、北風のなか、三男を背負い、次男の手を引き、うつむいて黙々と歩く妻のやつれた首筋を見ると、井村は胸が締めつけられる思いがした。

 しかし、既に彼には、温かな言葉一つかけてやる気力さえなかった。

 親戚の家などを転々とするうちに、いつしか、年は明けていた。

 井村は、博多の町をさまよいながら、常に死に場所を探していた。だが、子供たちの無邪気な笑顔が、彼を救った。

 “この子供たちのためにも、なんとかせにゃ……”

 そうは思っても、身を寄せる先はなかった。

 世間は年の初めの、めでたい正月である。晴れ着を着た人たちと行き交うたびに、井村は目を伏せた。

 そして、たどり着いたのが、この“ドカン”地域であった。

 彼は、軒を触れ合うように建ち並んだ掘っ立て小屋の前に立ち、冷たい潮風に吹かれ、しばらく途方に暮れていた。

 そのうちに、自分たちも、ここで暮らしてみようかと思った。

 この地域の一隅に、彼も自分で家を建てた。家といっても、集めて来た木材を柱にして、板とムシロで囲い、トタンを被せただけの小屋である。

 

 

加速 四

 

 吹けば飛ぶような四畳半大の掘っ立て小屋で、井村久幸の家族五人の生活が始まった。

 金槌も握ったことがない素人が建てた“家”は、しばらくすると傾き始めた。ムシロを敷いた床にボールを置くと、コロコロと転がった。井村は、それが、まるで自分の人生を暗示しているように感じられた。

 彼は、ともかく、家族を食べさせるために、働かなくてはならなかった。しかし、喘息では、会社勤めもままならず、肉体労働もできなかった。

 “ドカン”地域のすぐ近くには、競艇場があった。“ドカン”の住民のなかには、競艇にのめり込み、人生を台無しにした人も少なくなかった。

 井村は、この競艇場の入り口付近で、食べ物を売ってみることにした。ミカン箱やリンゴ箱を並べ、その上に戸板を乗せて台を作り、おでんを煮込んだ鍋と、いなり寿司を置き、夫婦で商売を始めた。

 しかし、一日の売り上げは、わずかなものであった。子供に白米を食べさせることも、布団を買うこともできず、真冬の夜でも、毛布にくるまって寝るしかなかった。

 夏になると、辺りには異臭が漂い、床下のドブには蚊が異様に繁殖した。井村の喘息は、ますます悪化していった。

 自分は、発作を起こしていつ死ぬかもしれないと、思うまでになっていた。

 井村は、完全に無気力になっていた。希望など、けし粒ほどもなかった。口を開けば、出るのは、咳と溜め息ばかりである。

 彼が、客の一人から仏法の話を聞いたのは、そんな時であった。

 井村は、最初、皮肉な笑いを浮かべて話を聞いていたが、客は一生懸命に、熱意を込めて、仏法の素晴らしさを語っていった。

 「あんたも、この信心で、絶対に幸せになれるとです」

 幸せ――忘れていた言葉であった。いや、考えることさえ辛い言葉といってよかった。

 しかし、客の確信にあふれた言葉に、次第に、彼は心を動かされていった。

 そのころ、福岡市内に住む兄が学会に入会し、彼のところへ、信心の話をしにやって来た。

 井村は、どうせ、これ以上は、悪くなりようがないのだから、この信心を試してみようと、半信半疑ではあったが、入会を決意した。

 “ドカン”に住みついてから、二年になろうとする、一九五五年(昭和三十年)十一月のことである。

 

 

加速 五

 

 井村久幸は、入会し、勤行・唱題をするうちに、生命が躍動し、生きる意欲がわいてくるのを覚えた。

 幸せになろう――彼は、心からそう思った。

 真面目に学会活動にも励んだ。先輩に言われるままに、“ドカン”地域のなかを弘教にも駆け巡った。

 無我夢中で、仕事と信心に取り組むなかで、井村は二つの不思議なことに気づいた。

 一つは、これまで散々、悩んできた喘息が、影を潜めたことだった。

 季節の変わり目に必ず起こっていた発作も出なかった。入会した翌年の春も、その秋も……。

 更に、競艇場近くでの商売の、売り上げの伸びに驚いた。いつしか、数倍にもなっていたのである。

 ほかに屋台が幾つも出ていたが、まるで磁石に吸い寄せられるように、彼のところに客が集まって来た。

 彼は、メニューをウドンとテンプラに絞り、すぐ客に出せるように工夫し、味も研究していた。

 それが功を奏し、「早くて、うまい」と評判になっていたのである。

 やがて、リヤカーを購入することができた。戸板の台から始まった商売が、ようやく普通の屋台らしくなった。

 「将来、店をもってみせるばい。福運をうんと積んで、絶対にもつ……」

 井村は、家族に、こう断言するようになっていた。彼の胸に、忘れていた夢が広がり始めていた。

 学会活動にも拍車がかかった。教学にも挑戦した。宿命転換について学ぶと、一人でも多くの人に、真実の仏法の偉大さを伝えたいと、対話に力がこもった。

 周囲には、希望をなくした人たちが数多くいた。稼いだ金で、浴びるように焼酎を飲み、そのまま道路に倒れ込んで眠る毎日の人もいた。血を売って得た金を博打に注ぎ込み、残飯をあさる人もいた。

 井村は、彼らの不幸を、放ってはおけなかった。

 「学会員が救わんで、誰が救うんか 」

 彼は、懸命に布教に歩いた。「もう来んでよか 」と怒号を浴びせられても、決して、ひるまなかった。

 仏の崇高な使いとしての使命に、既に彼は目覚めていたのである。

 だが、井村が真剣に再起を訴えても、“ドカン”の人たちの心は凍てたままであった。皆、人生を捨てているのだ。

 そして、寂しそうにこう漏らすのである。

 「わしらは、どうあがいたって、ここからは出て行かれやせんとよ。どうしようもなかと……」

 

 

加速 六

 

 “ドカン”地域での弘教は、生きる気力を失った人たちに巣くう、無力感との戦いでもあった。

 井村久幸は、勇気を振り絞って、懸命に訴えた。

 「自分の人生、そんなに簡単にあきらめるもんじゃなか。この仏法を試してからでも、決して遅うなかろうが」

 こうした彼の対話は、やがて、一つ一つ実っていった。メンバーの数は増え、入会二年目には“ドカン”地域とその周辺を含む長浜班の班長になった。

 “ドカン”では座談会も活発であった。

 一カ所、倉庫の座談会場があり、ここだけは広々としていたが、あとは、どの会場も四畳半程度の広さしかない。時には、街灯の下にムシロを敷き、その上で車座になって語り合う光景も見られた。

 また、週末になると、ここに住む十数人のメンバーが、毎週のように博多駅から夜行列車に乗り、鹿児島などに弘教に出かける姿が見られるようになった。

 皆、菜っ葉服に下駄履きなどの、貧しい身なりであった。しかし、苦悩にあえぐ人を救おうと、意気揚々と決意を語り合い、出かけていくのである。

 井村は、折伏と聞けば、どこへでも足を運んだ。九州各県をはじめ、中国地方にも出かけていった。

 彼は、この一九六二年(昭和三十七年)には、地区部長になるが、既に折伏は百世帯を超えていた。

 そして、井村の地区の弘教の息吹はますます高まり、“ドカン”地域に、爛漫と功徳の花を咲かせていくことになるのである。

 井村は、六六年(同四十一年)には、“ドカン”地域を離れ、店舗付きの借家に移り、遂に、念願の店をもつ。メニューはウドンとテンプラだが、商売は繁盛し、やがて鮮魚店、割烹料理店も始める。

 また、新築の自宅も購入し、その新居の地域で、彼は長年、町内会長を務め、地域にも大きく貢献していくことになるのである。

 “ドカン”地域の同志には、信仰で開いた人生の大ドラマがあった。ほとんどのメンバーが、一度は絶望の淵をさまよい、そこから再起した人たちである。だから、メンバーの話には大きな説得力があった。

 井村とともに活動し、後に地区担当員となった大川エリ子も、そんな一人であった。

 彼女は、五年ほど前には、夫と四人の子供とともに、一家心中をしようとして、夜更けの博多港の岸壁に立っていた。

 肌を刺すような、冷たい風が吹く日であった。

 

 

加速 七

 

 大川エリ子は、暗い海を見つめた。

 波間に揺れる港の明かりが、自分を嘲笑っているように思えた。

 以前は、彼女は貴金属商を営む夫の正吉とともに、店を切り盛りし、忙しい日々を過ごしていた。自宅のほかに、三軒の貸家を持つほど、余裕のある暮らしであった。

 ところが、夫が、ある知り合いの借金の保証人として印鑑を押してから、人生の歯車が狂い始めた。一九五六年(昭和三十一年)九月のことである。

 その知り合いが、間もなく、行方不明になり、夫が借金を肩代わりすることになってしまった。持ち家はすべて処分し、財産は何もなくなった。それでも莫大な借金が残った。あまりにも思いがけない、急転直下の転落だった。

 大川夫妻は、生きる気力さえなくし、一家心中を考え、“ドカン”地域を抜けて、この博多港の岸壁にやって来たのである。

 しかし、身を投げようとすると、周囲に人がいた。

 「もし、助けでもされたら、恥をかくけん……」

 夫妻は、人がいなくなるのを待つうちに、機会を逸してしまった。

 そんなことを三度も繰り返した末に、“ドカン”地域に住み着いたのである。

 エリ子は、以前から胃痛に苦しんでいた。前に病院で診てもらったところ、医師からは、胃を摘出しなければならないと告げられていた。手術をしようとしていた矢先に、この不幸に見舞われたのだ。

 今となっては当座のわずかな生活費があるだけで、手術する金などなかった。

 “ドカン”地域での暮らしが始まると、エリ子の胃の痛みは、日ごとに激しくなっていった。

 その痛みをごまかすために、彼女は、朝から焼酎を口にするようになった。いつも、焼酎の入った湯飲み茶碗が傍らにあった。飲んでいなければ、家事一つできなくなっていた。

 そして、遂に、毎日、一升もの焼酎を空けるようになってしまった。

 そのうちに、焼酎でも、胃の痛みは治まらなくなった。ある時、夜中に激痛と痙攣に襲われ、病院に運ばれた。そこでモルヒネを打ってもらってからは、モルヒネに頼り始めた。

 だが、一つの病院で打ってくれる量では、すぐに足りなくなり、病院をハシゴしては、誇張して病状を訴え、モルヒネを打ってもらった。

 薬が効いているうちは、痛みをごまかすことはできたが、切れれば、また、激痛にうめいた。

 

 

加速 八

 

 病苦と借金苦――光の見えぬ暗夜のような日々を、のたうつように生き、ボロボロになって朽ち果てていくのかと思うと、大川エリ子は、自分がたまらなく惨めであった。

 ある日、エリ子は、道で出会った女性の服に、見覚えのある学会のバッジが光っているのを見た。彼女は以前、学会員から仏法の話を聞かされたことがあった。そのころは、経済的にも恵まれ、悩みらしい悩みは何一つなかった。

 それだけに、興味もない宗教の話に苛立ち、「あんたたちの生活が、ようなってから、出直してきんしゃい」と言って、夫婦で追い返してしまった。

 しかし、自分に仏法を語ってくれた人の確信にあふれた言葉が、今も耳に焼きついていた。

 エリ子は、思わず、学会のバッジをつけた、見ず知らずの女性に声をかけた。

 「あんた、創価学会? ちょっと話を聞かせてくれんね」

 彼女は、まだ入会して間もないメンバーだった。自分だけでは詳しい話はできないからといって、学会の先輩を連れて来てくれた。

 エリ子は、そこで、初めて「宿命」という言葉を耳にした。そして、その宿命を転換する唯一の道が仏法であるとの話を聞き、その場で入会を決意した。

 だが、その夜、夫の正吉に信心をしたいと言うと、夫は入会に反対した。

 「入会を勧められ、追い返しておきながら、今さら信心させてくれなんて言えるもんか。そんな恥ずかしいこと、よう言いきらん」

 エリ子は、信仰に最後の希望を託そうとしていた。だから、それが否定されたことが無性に悲しかった。彼女は、生まれて初めて、夜通し泣き続けた。

 その妻の姿を見て、夫は仕方がない、という様子で言った。

 「それほど信心したかとか。そんなら、俺は絶対やらんけど、お前一人ならよか」

 こうして、エリ子は信心を始めた。一九五七年(昭和三十二年)三月のことである。

 入会し、信心に励むようになると、彼女は、日を追うごとに、元気になっていった。

 不思議なことに、胃の痛みを訴える回数が減り、焼酎も、モルヒネも、もう必要なくなっていった。

 ある日、夫妻で病院に行った。

 エリ子を診断した医師は首をかしげた。不安になって、正吉が尋ねた。

 「手遅れでしょうか」

 

 

加速 九

 

 医師は不思議そうな顔で答えた。

 「いや、すっかり、ようなっとるばい」

 大川エリ子は、思わず、医師に向かって言った。

 「うち、創価学会に入って、信心頑張っとりますけん」

 医師は呆気にとられた顔をしたが、「そうかね。まあ、頑張りんしゃい」と言ってくれた。

 夫の正吉の前で、医師が学会を褒めてくれたような気がして、エリ子は嬉しかった。

 エリ子が病を克服した姿を目の当たりにして、正吉は言った。

 「俺も信心ば、してみるか」

 夫妻で、信心に励むようになった。

 エリ子は思った。

 “うちの体は、御本尊様に助けられた体やけん、広宣流布のために使わないかんと”

 やがて、エリ子は食堂に勤め、正吉は、その食堂の一角で古物商を始めた。

 二人で、懸命に仕事と学会活動に精を出した。そのうちに、生活もなんとかやっていけるようになった。子供たちも、すくすくと育っていった。

 ただ、問題は莫大な借金であった。大川夫妻は、二人で懸命に働けば、どこへ行っても、一家が食べていくことはできると、実感していた。しかし、借金を返すとなると、とても、生活はできない。

 一時は、このまま借金を踏み倒してしまおうか、と考えもしたが、学会活動に励むうちに、仏法を持った者ならば、社会のルールは守るべきだと思うようになった。

 また、子供たちにも、どんなに貧しくとも、どこに出ても恥ずかしくない親の姿を見せたかった。

 大川夫妻は、いつの間にか、経済苦だから不幸なのではなく、その重圧に負けて、人生を放棄することこそ、最大の不幸であることを、信仰を通して学んでいたのである。

 借金が返せないなら、返せるように、もっと一生懸命に働けばよい。そして、何十年かかろうが、必ず返済しよう――それが二人の結論であった。

 夫妻の苦闘は続いたが、烈風に燃え上がる炎のように、人生への挑戦の闘志が燃え盛っていた。

 二人は、身を粉にして働いた。祈り、工夫を重ねることで、正吉の古物商の売り上げも、順調に伸びていった。

 だが、生活費は切り詰めに切り詰め、至って質素であった。

 最低限の生活費以外は、すべて借金の返済に充てるつもりで、貯金をしていたからである。

 

 

加速 十

 

 二、三年すると、大川夫妻の貯金は、ある程度、まとまった金額になった。といっても、借金の返済額には、とうてい及ばない金額である。

 それでも、せめてもの誠意を尽くそうと、妻のエリ子が、その金を持って返済先の会社の社長を訪ねた。

 社長は、黙って金を受け取ると、奥の部屋に入ったきり、なかなか出て来なかった。

 エリ子は、不安な気持ちで待っていた。しばらくすると、社長は、一枚の紙を持って姿を現した。

 「しかし、よく来てくれましたな。あなたは本当に心根のよか人たい」

 社長は、こう言って、手にしていた用紙を、エリ子に渡した。それは領収書だった。そこには、「完済」と、印が押されていたのである。

 彼女はわが目を疑った。借金は、まだ半分以上も残っている。

 信じられない気持ちだったが、「ありがとうございます」と深々と頭を下げ、家路についた。

 “わが家”では、夫の正吉が真剣に題目を唱えていた。彼女は夫に、事の経過を話した。夫の目に大粒の涙が光った。二人は、信心の功徳を噛み締めながら、手を取り合って泣いた。

 こうした功徳の体験は、“ドカン”地域では、枚挙に暇がなかった。

 信仰によって、幸・不幸の鍵は、わが胸中にあると自覚した人びとは、運命を嘆き、自暴自棄になりがちな自らの心に負けまいと、挑戦を開始した。

 そして、絶望の暗い日々を乗り越えて、新しい希望という太陽に向かって、自らの足で、人生の大地を歩み始めたのであった。

 その力となったのが、会長山本伸一の指導であった。メンバーは、聖教新聞に掲載された、伸一の会合での指導や御書講義を、貪るように読み、信心を学んでいった。

 時には、信心即生活を説く指導に、働くことへの意欲を新たにし、時には、広宣流布に進む仏子の使命を訴える講演に、自分がこの世に生まれてきた深い意義を噛み締め、勇気を奮い起こしてきた。

 また、皆が絶対に幸福になれるとの大確信あふれる指導に、目頭を熱くしながら、発心を重ねてきたのである。

 更に、東京での毎月の本部幹部会などには、しばしば彼らの代表も参加し、その人が伝える山本会長の話が、皆の活力の源泉となっていた。

 伸一の思いもまた、最も大きな苦悩を抱えた人びとに向けられ、彼の祈りの一念も、そうした人びとの幸福にこそあった。

 

 

加速 十一

 

 “ドカン”地域のメンバーが次々と蘇生していった陰には、同志の励ましがあった。

 それは、悲しい過去を背負い、疑心暗鬼になり、孤立していた人びとの心と心を結び合い、新たな人間のネットワークをつくり上げていった。

 “ドカン”の中心会場は鮮魚店の倉庫であったが、この会場提供者は、炭鉱を辞めて、ここに移り住み、魚の行商から身を起こした夫妻であった。

 ここだけは、珍しく畳の部屋があり、雨や風にも安心だった。

 この鮮魚店の夫妻は、毎日のように、残った魚のアラを持って帰り、鍋物にしては、集って来た人たちに振る舞った。

 家に帰っても、食べるものも満足にない人たちがほとんどである。それが、どんなにメンバーの空腹を満たし、心を温めたか、計り知れないものがある。

 そこには、自分たちも同志に励まされて信心に奮い立ち、商売が軌道に乗ったという体験をもつ鮮魚店の夫妻の、感謝の気持ちが託されていた。

 夫妻は、自分たちがいる限り、仏の使いであるわが友に、ひもじい思いをさせてなるものかと、メンバーのために献身してきたのである。

 なかには、会合の後に、風呂に入れてもらった人もいた。どの家にも風呂などなかったうえに、銭湯の入浴料さえも切り詰めなければ、生活できない人も多かったのである。

 舗装もされず、太陽の光も差さない“ドカン”地域の路地には、泥水や汚物が溜まっていた。

 すり切れた雪駄やゴムゾウリでやって来るメンバーの足は汚れ、会場の畳は、年に何度も替えなければならなかった。

 それでも、この会場の提供者は、広宣流布のためにわが家を使ってもらうことを喜びとし、誇りとしていたのだ。一方、メンバーは、その真心を、深い感謝の心で受けとめていた。

 この会場での座談会や指導会を通して、激励され、信心に目覚め、立ち上がっていった友は数知れない。

 また、同志が病気をしたとなれば、周囲のメンバーが粥をつくるなど、こまめに面倒をみた。葬儀があれば、皆で棺桶をつくることから始めた。

 ここには、体の不自由な人もいた。日本国籍のない人もいた。犯罪歴のある人もいれば、元刑事もいた。

 しかし、そんなことにとらわれ、差別するようなことのない、和気あいあいとした人間の信頼の絆が、メンバーを中心につくられ、“ドカン”地域全体を包もうとしていたのである。

 

 

加速 十二

 

 “ドカン”地域は、博多港の港湾計画の推進のため、一九七〇年代半ばには、ほとんどの人が移転し、やがて、消滅していった。

 しかし、ここで仏法に巡り合い、自己の使命に目覚め、見事に境涯革命を成し遂げた同志が、その後、各地で活躍することになるのである。

 こうした例は、この“ドカン”地域だけではなかった。全国各地に同じような地域があったが、そこでも、多くの民衆の蘇生のドラマを見ることができる。

 これらの事実は、誰が本当の民衆の味方なのかを、明確に物語っている。

 後年のことになるが、自ら社会運動を手がけ、創価学会の運動を見続けてきた、小説家で評論家の杉浦明平は、聖教新聞の「庶民の凱歌・創価学会」と題する鼎談(一九八一年五月三日付)のなかで、次のように語っている。

 「学会の最大の業績は、社会の底辺にいる人達というか、庶民の力を引き出し、蘇生させたということです。じつは、それは私の大きな課題でもあったんです。(中略)

 身体に障害があったり、病気や夫をなくして、経済的にも精神的にも苦しんでいる人がたくさんいる。その人達をなんとかしなければと、村に入って、援助をしたり、さまざまな運動をこころみました。中国の八路軍の在り方を、ひとつの模範にしましてね。

 しかし、だめなんです。まわりでいくらお膳立てし、金を与えても、結局、本人が自立できない。ところが、創価学会がそれをやってしまった」

 杉浦は、ある革新政党の地方議会の議員も務めた人物でもある。

 彼は、学会が民衆の自立を可能にしたことに対して、「大変なことを始めたもんだ、学会にしてやられたっていう感じもしましたね」と、率直な感想を述べている。

 そして、学会の運動について、「苦悩に打ちひしがれていた人達が、人間としての生き方を自覚して、自信をもって生きていく。人間解放ですね」と称賛を惜しまない。

 また、「人の良さを引き出せる、そうしたコミュニティーが現代にはない。その意味で、学会の運動は、極めて大きな意味がありますよ」とも語っている。

 創価学会の歩みは、仏法というヒューマニズムの哲理を人間の心に打ち立て、民衆を蘇らせ、殺伐とした現代社会を、根底から変えようとしていた。

 民衆の新しき時代の到来を告げる序曲が、高らかに鳴り響いていたのである。

 

語句の解説

 ◎杉浦明平

 一九一三年生まれ。愛知県出身の小説家、評論家。戦後、郷里に定住し、地方政治に携わる。その経験をもとに『ノリソダ騒動記』等の記録文学を発表。『ミケランジェロの手紙』の訳出など、ルネサンス研究でも多大な業績がある。

 ◎八路軍

 一九三七年以後、日中戦争期に活躍した国民革命軍第八路軍の略称。彼らは戦闘の合間に生産活動を行い、自給自足をはかるとともに、農民の生産活動も援助した。また「民衆からは糸一筋、針一本とってはならない」など、人民に奉仕する厳格な規律を有していた。

 

 

加速 十三

 

 一九六二年(昭和三十七年)二月二十七日、中東訪問から帰った会長山本伸一が出席し、東京体育館で二月度の本部幹部会が開催された。

 喜びと決意に満ちたわが同志たちは、この「伝統の二月」に、未曾有の弘教をもって、新しき広布の歴史を開こうと、寒風に胸張り、大法戦を展開してきた。

 この席上、二月度の弘教の結果が発表された。

 「二月度本尊流布、十一万七千五百四十七世帯 」

 その数を聞くと、場内にどよめきが起こり、嵐のような拍手がわき起こった。

 実に、学会始まって以来の空前の成果である。

 伸一が会長に就任して以来一年十カ月、広宣流布の潮は、もはや誰びとも止めることのできない、時代の大潮流となっていたのだ。

 伸一は、その流れを、冷静に見つめ、毎月、激増していく新入会の友が、生涯、正しき信仰を全うし、誤りなく幸福の軌道を歩み続けるために、何が必要かを考え続けてきた。

 新しき発展は、新しき友の成長にかかっているからである。

 そして、一人一人が御書を心肝に染め、御書を根本にして立つ以外にないと結論していた。

 大聖人の教えは、御書に明確である。そこには生命の法理が説かれ、人生の在り方も、なんのために仏道修行に励むのかも、なぜ、難が競い起こるのかも、すべて明らかにされている。しかも、御書を拝すれば、大聖人の御心に触れ、大確信に接することができる。

 それは、信心の原動力となって、勇気と希望と智慧をもたらし、人間としての生き方の規範を確立していくことになる。

 彼は、そのためには、観念的な教学ではなく、信仰の実践に即した生きた教学の大運動を展開し、一人一人の胸中に、学会の精神の“柱”を打ち立てていく必要性を痛感していた。

 それには、教学部の中核となる教授、助教授に対して、広宣流布の全責任を担う自覚を、更に強く促すことから始めなければならないと、彼は思った。

 教学の指導にあたるメンバーの一念と、研鑽の成果が、最前線の同志の教学研鑽の場である地区講義や個人指導などにも、大きく反映されていくからである。

 伸一は、この二月度の本部幹部会の終了後、同じ会場で、教学部の助教授以上のメンバーが一堂に会して、初の全国助教授会を開催することにしていた。

 そこで教学部の幹部の基本精神を訴え、新たな前進を開始しようとしていたのである。

 

 

加速 十四

 

 全国助教授会で、山本伸一は語った。

 「戸田先生は『理は信を生み、信は理を求む』『求めたところの理は信を高くする。高い信は、信仰に対する理解が強くなる』と指導されています。

 『理』すなわち教学力が優れているならば、『信』すなわち信心も立派でなければ、日蓮大聖人の教えにも、また、戸田先生の精神にも反することになるし、本当の功徳を受けることはできません。

 信心なくして教学だけを誇り、鼻にかけているような人は増上慢です。最後は仏法のうえで、仇となる人になってしまう。

 戸田先生は、よく、理屈だけ覚えて、信心のない者は、九官鳥や鸚鵡と同じであると、厳しく言われておりました。

 どうか、皆さんは、御書の一節でもよいから、徹底して実践し、身で読んでいただきたい。それが大聖人の教えを、すべて読みきったことに通じるからです。

 また、教学部の幹部は、広宣流布のいっさいの責任を担う自覚をもっていただきたい。

 皆さんが広布推進の原動力であることを深く自覚するならば、当然、その講義には情熱がみなぎり、わかりやすく、明快で、深いものになるはずです。

 なぜなら、受講する人たちに、仏法の偉大さを確信させ、苦悩を乗り越える力を奮い起こさせ、ともに広宣流布に生きる人材に育てようとの一念が脈動してくるからです。そして、仏法の法理を、皆が心から納得できるようにするために、懸命に努力し、工夫するようになるからです。

 反対に、気迫もなく、観念的で何を言っているのかわからない講義や、人びとの心を打たない講義になってしまうのは、広宣流布を成し遂げていこうという、責任感がないからです」

 参加者は、皆、緊張した顔で、山本会長の指導に耳を傾けていた。

 伸一は、更に、気迫のこもった声で言った。

 「ところで、来年は『教学の年』とし、徹底した教学の研鑽に励んでいくことを提案したいと思います。

 これからは、特に教学が重要になります。広宣流布とは、民衆の生活に根差した思想・哲学運動であり、いよいよ、その本格的な時代の幕が開いたからです。

 その中核である皆様方の獅子奮迅の活躍を心から期待し、本日の私の指導とします」

 伸一は、この時、まず自らが、徹底して教学を研鑽し、折あるごとに御書の講義を行い、すべての同志に、大聖人の弟子としての久遠の使命を伝え抜こうと、心に決めていた。

 

 

加速 十五

 

 山本伸一は、三月の三日には総本山にいた。

 この日、大石寺に建設を進めてきた大坊が完成し、完成奉告法要が営まれたのである。

 大坊は法主が居住する大奥や、総本山の事務、所化小僧の育成の場として使われる建物である。

 読経に続いて、日達上人から「慶讃文」が読み上げられた。

 「……夫れ惟みるに近年創価学会の強盛なる折伏により 宗勢頓に揚り正法に帰するの者は日夜に増大し 全国に新寺を建立すること既に六十箇寺を数ふるに至る

 総本山に於ては先に五重宝塔 塔中の整備拡充を行い次いで近代的なる大講堂を建立寄進して正法講学の実を挙げ 続いて大化城を築いて以て宝処に至る大衆の安止の処となす……」

 更に、「慶讃文」では、ここに創価学会の会長が大願主となり、近代建築の粋を集めた広壮な大坊が建立寄進されたことによって、総本山の面目は一新されたとしている。

 そして、広宣流布の願業成就に精進し、護持建立の誠を尽くす第三代会長山本伸一の功績は甚大であり、信徒の範とすべきであるとしたうえで、最後に、伸一を法華講大講頭に任じ、その功績に報いることが述べられていた。

 参列していた学会の代表は、ここで初めて、山本会長の大講頭の就任を知ったのである。

 大講頭の辞令を手渡す際に、日達上人は言った。

 「本宗の大講頭として、日蓮正宗の信徒の全部の代表として、今後、信徒の指導と、また、正宗寺院全部の護持を、責任をもっていたしてください」

 信徒の指導と宗門の護持とを、日達上人から託された伸一は、誠心誠意、それに応えていこうと決意していた。

 事実、彼は、これから約三十年後の法主日顕の姦計による総講頭の罷免まで、言語に絶する大誠実で、総本山に忠誠を尽くし抜いてきた。

 法主をはじめとして僧侶が、宗祖大聖人の御精神のままに、令法久住に邁進するならば、その宗門を外護することが、正法を守ることにつながると信じていたからである。

 なお、この日、大坊の完成奉告法要に先だって、伸一は、青年部の代表とともに、総本山の三門前で、前年十一月の男子部十万人、女子部八万五千人が集った、それぞれの総会を記念して植樹を行った。

 男子部はヒマラヤ杉の苗木を、女子部は槇の苗木を植え、この集いの意義を、広宣流布の歴史に、永遠に止めようとしたのである。

 

 

加速 十六

 

 三月の後半になると、山本伸一の行動は、加速度を増した。

 十六日に東京・文京公会堂での、「3・16」を記念する第二回青年部音楽祭に出席すると、岡山に飛び、二十日には、中国本部の地区部長会に出席した。

 ここで伸一は、一時間半にわたって、「種種御振舞御書」の講義を行った。

 全同志の心の奥深く、仏法哲理が浸透し、それぞれの生き方のなかに、御聖訓の精神が脈打つことを願いながらの講義であった。

 伸一は、この年、全国各地を回っているが、そこでは必ず、幹部会などの会合のほかに、地区部長などの幹部を対象に御書講義を行っている。

 彼は、その講義に全魂を傾け、真剣勝負で臨んだ。

 講義が終わると、体中の力が抜けてしまったように感じられることも、しばしばあった。

 彼は講義に際して、深夜まで御書を拝し、研鑽することも少なくなかった。

 御書に仰せの一つ一つの事柄や時代背景を正確に認識するために、関連した御書や法華経、一般の歴史書もひもといた。

 また、講義で強調すべきポイントは何かを考え、皆がより明快に理解できるよう、どこで、いかなる譬えやエピソードを引くかにも心を配った。

 更に、戸田城聖の講義や講演、論文、あるいは、戸田の指導を記したメモなどを読み返し、その御文に関する恩師の指導も確認していった。

 そして、講義の受講者が信心の喜びを噛み締め、大確信をもって立ち上がれるように、彼は、懸命に唱題を重ねた。

 それは、一切衆生を救う大聖人の、大境界と御精神を伝え得る生命力を、必死になって奮い起こさんとする、強い祈りのこもった唱題であった。

 この彼の講義を通し、全国の同志は、仏の使いとして広宣流布の使命に生きる喜びと誇りと確信をつかんでいったのである。

 やがて、この一九六二年(昭和三十七年)の十一月に、学会は三百万世帯を達成するが、弘教の加速の原動力は、実に、伸一の渾身の御書講義にあったといってよい。

 中国での地区部長会の翌日には、伸一は香川に移り、四国の初の法城として高松市に完成した四国本部の落成式に参列した。

 会館は二階建てで、一階の礼拝室が約八十畳、二階の広間が三十三畳という、現在の方面の中心会館から見れば、考えられないほど小さな規模であったが、同志の喜びは大きかった。

 

 

加速 十七

 

 晴れやかに、四国本部の落成の式典が終了した後、山本伸一は、四国の幹部と懇談した。

 その席で彼は尋ねた。

 「この会館に来るのに、最も遠い地域の人だと、何時間ぐらいかかりますか」

 幹部の一人が答えた。

 「そうですね。愛媛の宇和島などですと、急行でも、五、六時間はかかりますね。

 もし、交通費を節約し、各駅停車を利用すれば、九時間ぐらいになります」

 既に学会は二百五十万世帯を突破していただけに、最低、各県に一、二の会館は必要であった。

 しかし、当時は、大客殿の建立をはじめ、寺院の建設など、宗門の整備を最優先しており、各県に一つの小さな会館を建てることさえ、容易ではなかったのである。

 伸一は言った。

 「そうか。そんなにかかるのか。みんなに申し訳ないな。

 でも、これから、四国の各地に会館を建てていくし、この何倍もの大きな会館もつくるから、しばらくは、我慢してもらってください」

 四国の婦人部の幹部の一人が言った。

 「こんなに立派な会館をつくっていただいたのですから、もう、私たちは、これで十分です」

 すると、伸一は、彼女に語った。

 「求道心ということからいえば、ここまで来るのが遠いからといって、文句など言ってはならないし、また、会館ができたことへの感謝の心は大切です。それが自身の功徳、福運になるからです。

 しかし、それはそれとして、私は、みんなの苦労を、できる限り軽減したいと思っている。それが指導者の姿勢です。責務です。

 幹部というのは、常に、一番苦しんでいる人、大変な思いをしている人のことを念頭において、物事を考えなくてはならない。

 つまり、何時間もかかってやって来る人の、負担を減らすにはどうすればよいのか、あるいは、いかにすれば、更に新しい会館を建設できるのかを、考えていくことです。

 そうでないと、幹部は、みんなから浮き上がり、最も大切な会員と心が離れてしまう。

 また、私とも呼吸を合わせていただきたい。

 私と呼吸を合わせていくには、広宣流布の全責任を担おうとする、強い一念をもつことです。そして、苦労している同志のことを、いつも気遣い、励まし、勇気づけ、身を粉にして、奉仕していくことです。

 わが同志を守り抜くことが、私の精神だからです」

 

 

加速 十八

 

 山本伸一は、厳しい口調で話を続けた。

 「幹部といっても、会員のために一生懸命に尽くそうという人と、会員を自分のために、うまく利用しようという人がいる。

 その違いというのは、一見、わからないかもしれないが、長い目でみれば明らかです。何かと周囲の同志に迷惑をかけ、後輩たちからも嫌われ、最後は、自分から学会を離れていくようになる。そうなれば、皆も不幸、自分も不幸だ。

 幹部は、自己中心的な考えや虚栄心を捨てて、徹して会員に尽くし抜こうとの一念を定めることです。そこにこそ、真実の仏法の道がある。

 ともかく、同志のため、わが会員のため、と決心し、皆がいかんなく力を発揮していけるようにしなければならない。それが真の指導者です」

 四国は、広宣流布の進展が思うにまかせず、隣の九州や中国に、やや遅れをとっていた。それだけに、今後の発展のためには、中心となる幹部の成長が望まれていたのである。

 伸一は、最後に言った。

 「四国は、まず団結することだ。イスやテーブルだって四本の脚が支え合って立っている。四国も四つの県の同志が、しっかり団結し、お互いに目標を定めて進んでいくことです。

 私も、また、四国にまいります。ともに力を合わせて、四国の新しい時代をつくろうよ」

 伸一は、広宣流布の盤石な布石のために、四国の強化に力を注ごうとしていたのである。

 

 戸田城聖の祥月命日にあたる四月二日、総本山大石寺では、戸田の五回忌法要と、待望の大客殿の起工式が行われた。

 空は薄曇りであったが、恩師をしのぶかのように、参道の桜の花も、ようやくほころび始めていた。

 戸田の五回忌法要は、午後一時から大講堂で厳かに営まれた。

 焼香、各部の代表の追憶談の後、山本伸一があいさつに立った。

 彼は、恩師の雄姿を思い描きながら語り始めた。

 「戸田先生は、折伏の大師匠でありました。その先生に最初に、まず、ご報告申し上げます。

 先生が亡くなられた昭和三十三年(一九五八年)四月二日の学会の世帯数は、八十一万七千世帯でございました。

 そして、四年後の現在、御本尊の燦々たる威光に照らされ、弟子一同の死身弘法の大精神に立った活動によって、二百五十四万二千世帯となりました」

 凛とした伸一の声が、大講堂に響いた。

 

 

加速 十九

 

 山本伸一は、恩師である戸田城聖に語りかけるように話を続けた。

 「したがいまして、戸田先生亡き後、先生によって育まれた弟子たちの手で、百七十二万五千世帯の大切な新しい弟子が誕生したことになります。

 それこそ、先生の指導の偉大さを示す、厳然たる証拠であると、私は、大いなる喜びをもって、ここに謹んでご報告いたします。

 私どもは、日蓮大聖人の仰せの通りに、日夜、懸命に、広宣流布に向かって、血のにじむような活動を展開しております。

 なんの利害も、打算もなく、名誉も欲せず、ただ、ただ、日本中の、更には世界中の人びとが、老いも若きも、労働者も資本家も、あらゆる階層の人びとが幸福になり、平和になることを祈り念じての、誇り高き活動であります。

 しかし、現在、その創価学会に対して、盛んに悪口雑言が浴びせられ、総攻撃の様相を呈しています。

 だが、これも『大悪をこれば大善きたる』(御書一三〇〇)の御聖訓に照らしてみるならば、最も喜ばしい瑞相であると、確信いたします。

 また、私どもは、立正安国の実現のために、この夏の参院選に公明政治連盟の同志を支援いたしますが、仏法を基調に、新しき社会の建設に突き進めば突き進むほど、ますます非難と中傷の嵐が競い起こることは間違いありません。

 しかし、先生の念願であられた、民衆の幸福と平和な社会を実現するために、勇んで広宣流布の道を走り抜いていくことを、お誓い申し上げます」

 それから、伸一は、参列した同志に、こう呼びかけて話を結んだ。

 「私どもには、戸田先生の弟子として、全人類の幸福と平和に生涯を捧げられた恩師の精神を、日本のみならず、全世界の人びとに伝えていく使命があります。それぞれが誇らかに弟子の道を貫き、この限りある一生を、悔いなく、最高に有意義に生き抜いてまいろうではありませんか」

 賛同と誓いの拍手が鳴り響いた。

 伸一は、恩師のこの五回忌法要にも、師との誓いを一つ一つ果たし、弟子として、いささかも悔いなく、誉れ高く参列できたことが何よりも嬉しかった。

 彼の胸には、満面に笑みをたたえた戸田の懐かしい顔が広がっていた。

 伸一のあいさつの後、戸田城聖の子息の喬一から御礼の言葉があり、最後に、全員で「同志の歌」を合唱して、五回忌法要は滞りなく終了した。

 

 

加速 二十

 

 山本伸一は、戸田城聖の五回忌法要の後、恩師の墓参をした。そして、午後三時五十分から、旧客殿跡で執り行われた、大客殿の起工式に出席した。

 この大客殿は、一九六〇年(昭和三十五年)五月三日、伸一の会長就任式となった第二十二回本部総会の席上、彼が恩師の七回忌までの目標として発表した、第三代会長としての誓願であった。

 広宣流布の成就を祈念する道場である、大客殿の建立は、戸田城聖の遺言であった。そして、建立にあたっては、カナダの杉や台湾の桧、イタリアの大理石などの世界の名産を使って建設するように、言い残していたのである。

 また、大客殿の主柱となるコンクリートの土台には世界広宣流布の意義を込めて世界各国の石を埋めることになっていた。

 そのために伸一は、これまで、南・北アメリカをはじめ、東南アジア、ヨーロッパ、中東などを駆け巡り、各国の石を収集してきたのである。

 広宣流布を使命とする創価学会の同志は、大客殿の建立に賛同し、喜び勇んで、真心の浄財をもって、建設に尽力してきた。

 伸一は、多くの会員が、決して楽ではない家計のなかで、生活費を切り詰め、供養を捻出してきたことをよく知っていた。その赤誠は、役職の差別なく、会員たちの広宣流布への一念から発するものであり、そこには、あまりにも尊い、信心の志がある。

 彼は、起工式に参列しながら、そうした健気な同志の真心を思い、心で深謝し続けていた。

 読経・唱題、鍬入式、理事長の原山幸一の経過報告などに続いて、会長の伸一のあいさつとなった。

 伸一は、あいさつのなかで、こう語った。

 「私は、この大客殿の建立は、日本のため、世界のために、希望であり、黎明であり、喜びであると確信するものであります」

 広宣流布の祈願の道場の建立は、全民衆の幸福と世界の平和への大きな前進の証であるからだ。

 全同志は、この大客殿の起工式を伝える聖教新聞の報道を涙で読んだ。いよいよ、自分たちの供養が、具体的なかたちとなって総本山を荘厳し、それが広宣流布の大進展の原動力になっていくのだと思うと、誰もが喜びに震えた。

 どの座談会場にも、「聖教グラフ」等に掲載された大客殿の完成模型写真や、それを模造紙に大書きした絵などが張り出され、大客殿の起工式の話でわきかえった。

 

 

加速 二十一

 

 全国各地の座談会で、会員たちは、大客殿の起工式を喜び、祝った。

 ――ある人は、自分の供養が、大客殿の一畳の畳となり、コンクリートの柱の一部になると思うと、感激でいっぱいであると、頬を紅潮させて語った。

 また、ある人は、学会は貧乏人と病人の団体と非難され続けてきたが、その私たちの真心で、どれほど立派な大客殿ができるのか、よく見てもらいたいと声を大にして語った。

 そして、この大客殿の建設の槌音に合わせ、弘教の大波を広げ、広布実現への建設の槌音を響かせようと決意し合った。

 同志の多くは、あまりにも質素な、慎ましい暮らしをしていた。しかし、法のため、広布のために貢献することができる誇りが、皆の心に脈打っていた。

 まさしく大客殿は、同志の美しく清らかな真心の結晶であり、仏国土建設の希望と歓喜の象徴であった。

 それから、三十年ほど後に、法主の日顕によって、総本山興隆の大功労者である山本伸一が一方的に総講頭を罷免され、創価学会の破門が通告され、更には、大客殿が解体されるに至るとは、誰人も予測し得なかったに違いない。

 同志の赤誠を踏みにじったのみならず、信徒を奴隷のごとく支配するために、創価学会という仏意仏勅の団体を壊滅しようとした、嫉妬に狂った日顕の大罪は、仏法の眼から見れば、永遠に消えることはない。

 しかし、広宣流布の実現を誓願し、大客殿建立の供養に参加した尊き信徒の真心をば、御本仏・日蓮大聖人は御称賛くださっていることは絶対に間違いない。

 そして、その仏法興隆への大忠誠は、無量の福徳となって、永遠に自身を輝かせていくことも、絶対に間違いない。

 四月の前半、伸一は、埼玉会館での埼玉総支部の地区部長会(五日)に出席して、「富木殿御返事」(御書九六二)の講義を行うなど、関東の指導に力を注いだ。

 そして、十四日には、春まだ浅い北海道へ飛んだ。翌十五日に開かれる、北海道総支部幹部会に出席するとともに、地区部長会等を開き、御書の講義を行うためであった。

 伸一は、北海道に到着した十四日の夕刻、北海道本部の庭で、北海道女子部の部長であった故嵐山春子をしのんで、桜の木の植樹を行った。

 それは、この年の一月十三日に営まれた、嵐山の北海道女子部葬に参列した伸一が、女子部のメンバーに約束したものであった。

 

 

加速 二十二

 

 嵐山春子を顕彰する桜の植樹には、山本伸一のほか、理事や北海道の幹部、女子部の代表など、三、四十人が出席した。

 空は、美しい夕焼けに染まり始めていた。

 伸一が見守るなか、副理事長、理事、女子部長らが、植樹される桜の木の根元に、スコップで順番に土をかけていった。

 桜の木は、人間の大人の背丈の二倍ほどの若木である。やがて、この桜も、毎年、花をつけ、皆の目を楽しませてくれるに違いない。そして、そのたびに、人びとは嵐山のことを思い出すであろう。

 植樹がすむと、伸一は言った。

 「この桜の木を、嵐山さんだと思って育てていこうよ。きっと、大きく育っていくよ。彼女は、いつまでもみんなと一緒だ。

 毎年、桜の花が咲くころには、この木を見て、成長を競い合っていきたいね」

 歳月は、やがて、去りし人を忘れさせる。だが、伸一は、健気に広宣流布に生き抜いた同志を顕彰し、その功労を、永遠に伝え残していきたかった。

 また、この桜の植樹をもって、北海道の女子部員たちが、嵐山の死の悲しみを乗り越え、希望の未来へと出発する契機としたかったのである。

 この日の夜には、全道の支部長会が開かれた。

 そこで、伸一は御書の「四信五品抄」を拝して指導した。

 翌十五日は、北海道総支部の幹部会であった。

 同志は、快晴の空の下、会場の札幌市の中島スポーツセンターに、全道から集って来た。

 午前十時に幹部会は開会となった。

 伸一は、この幹部会で、北海道の同志の健闘を称えた後、学会への世間の中傷が、いかに根拠のないものであるかを語っていった。

 「先日、原山理事長が、ある著名人と会った折に、『創価学会は仏壇を焼き、香典を持っていってしまう宗教ではないのですか』と言っていたそうです。

 そこで、理事長は『とんでもない。無認識もはなはだしい。学会では、ただの一度も、仏壇を焼けなどと言ったり、香典を持っていったことはありません』と説明しましたところ、その方は大変に驚いて、『そうでしたか。それは無認識でございました』と言っていたそうです。

 社会の指導者といわれる人でも、学会の真実を見極めたうえで語っているわけではありません。

 しかも、これまでもそうでしたが、学会の発展を恐れる勢力が、意図的に虚偽の情報を流しているケースが数多くあります」

 

 

加速 二十三

 

 山本伸一は、力を込めて訴えていった。

 「学会を陥れるために、根も葉もない悪意の情報を流し、何も知らない一般の人びとに信じ込ませる。そして、悪い先入観を植えつけ、世論を操作して学会を排斥するというのが、現代の迫害の、一つの構図になっております。

 したがって、私たちの広宣流布の活動は、誤った先入観に基づく人びとの誤解と偏見を正して、本当の学会の姿、仏法の真実を知らしめていくことから始まります。つまり誤解と戦い、偏見と戦うことこそ、末法の仏道修行であり、真実を語り説いていくことが折伏なのであります」

 ひとたび植えつけられた先入観や固定観念を覆すのは、容易なことではない。しかし、それを打ち破り、真実を見抜く、人びとの眼を開かせることから、新しき時代の建設は始まる。

 最後に伸一は、なぜ、学会が公明政治連盟を結成して、同志を政界に送り出すのかに言及していった。

 「私どもに対して、宗教団体であるのに、なぜ選挙の支援をするのかとの批判の声がありますので、それについて、一言しておきたいと思います。

 私たちは、仏法を奉ずる信仰者でありますが、同時に社会人であり、国民として政治に参画し、一国の行方を担う責任があります。

 もし、自分だけ功徳を受け、幸せになればよいと考え、政治にも無関心であるならば、それは利己主義であり、社会人としての責任を放棄した姿であります。

 現在の政治を見ると、社会的な弱者を切り捨て、民衆に本当の意味での救済の手を差し伸べようとはしていないのが現状です。

 そこで、私どもは、仏法の慈悲の哲理を根底に、民衆の幸福のために働く同志を支援し、政界に送ろうとしているのです。それは、決して、宗教を直接、政治に持ち込むことでもなければ、学会のための政治を行うことでもありません。

 仏法者の使命として、全民衆が幸福になる社会を建設するために、あらゆる問題に取り組んでいこうとしているのです。

 個人の幸福と社会の繁栄の一致を実現することが、『王仏冥合』であり、そのための支援活動であることを、私は申し上げておきたいのであります」

 伸一は、学会に浴びせられる集中砲火のような批判を一身に受け、自らそれを論破しながら、悠々と前進していった。

 どうすれば会員が勇気を奮い起こせるか――その一点に彼は心を砕き、猛然と戦い続けていたのである。

 

 

語句の解説

 ◎王仏冥合

 王法と仏法が冥合する(奥底で合致する)こと。制度的な一体化ではなく、社会を建設する人間一人一人の生き方の根底に、仏法の哲理、慈悲の精神が確立されていくことを意味する。『新・人間革命』第五巻「獅子」の章に詳しい。

 

 

加速 二十四

 

 わが創価学会は、民衆を守る獅子王である。

 わが獅子王は勝ったのである。

 そこに集った無数の人間が、新しい希望に燃えて、生き生きと前進を始めた。

 あの怒涛の如き凱歌の轟き、絢爛たる勝利の旗を掲げた行進……。それは、いまだかつて見ることのできなかった、人類の、尊き荘厳な姿であった。

 ゆえに、魔の軍勢は、この妙法の旗を高く掲げゆく我ら学会を嫉妬し、その獅子王を打ち倒そうと、奔走し始めたのだ。

 これこそ、仏法の法理そのままの姿なのである。

 「御義口伝」には、法華経勧持品第十三の「作師子吼」について、次のように仰せである。

 「師子吼とは仏の説なり説法とは法華別しては南無妙法蓮華経なり、師とは師匠授くる所の妙法子とは弟子受くる所の妙法・吼とは師弟共に唱うる所の音声なり作とはおこすと読むなり、末法にして南無妙法蓮華経を作すなり」(御書七四八)

 〈師子吼とは仏の説法である。説法とは法華経、別して南無妙法蓮華経を説くことをさす。

 師子吼の「師」とは、師である仏が授ける妙法であり、「子」とは弟子が受ける妙法であり、「吼」とは師匠と弟子がともに唱える音声をいうのである。作とは「おこす」と読む。「師子吼を作す」とは、末法において南無妙法蓮華経を作すことをいうのである〉

 仏である日蓮大聖人の説かれた妙法を授かり、歴代会長が命をかけて、末法に広宣流布してきた唯一の団体が創価学会である。そこに、仏法の光が、人権の光が、幸福の光が、平和の光がある。

 その学会を破壊しようとするならば、一国の、いや世界の柱を、良心を踏みにじることになる。更に、正法という人類の進むべき軌道を破壊し、社会を転落させることになる。

 御聖訓には「師子王を吼る狗犬は我が腹をやぶる」(同一五二五)と述べられている。それは、仏法の厳しき因果の理法である。

 山本伸一は、日本という国の未来を憂えていた。それゆえに、この北海道総支部幹部会で、愛する北海道の同志に、学会への無認識な非難中傷と戦うことを呼びかけたのであった。

 彼は、その後、北海道本部での全道の地区部長会に出席し、「北条時宗への御状」(同一六九)の講義を行った。

 この「北条時宗への御状」は、文永五年(一二六八年)十月十一日、鎌倉におられた大聖人が、宿屋入道を通して、執権の北条時宗に提出した書である。

 

 

加速 二十五

 

 日蓮大聖人が「北条時宗への御状」を認められた文永五年(一二六八年)、蒙古からの牒状が届き、幕府は蒙古の来襲の脅威に怯えきっていた。

 大聖人は、この御書のなかで、蒙古からの牒状は、「立正安国論」の予言の的中であり、すみやかに諸宗への布施を止めて、公場で教えの正邪を決するように諫めている。

 諸宗が権力に迎合して、自宗の安泰を図っていたなかで、大聖人は、諫暁をもって、最高権力者に迫ったのである。

 諫暁とは、真実を語り、誤りを正すことである。当然、それは法難を呼び起こすに違いない。しかし、すべてを覚悟のうえで、大聖人は真実を説かれ続けた。

 そこには、大切な民衆を、そして、一国を救わなければならないという、大慈悲の信念がある。真実の仏法への絶対の確信がある。

 山本伸一は、講義では、この大聖人の諫暁の精神を受け継いで、軍部政府の弾圧と戦い抜いたのが、牧口初代会長、戸田第二代会長であり、そこに創価学会の、輝ける不滅の歴史があることを語っていった。

 また、「国家の安危は政道の直否に在り仏法の邪正は経文の明鏡に依る」(御書一七〇)の御文では、彼はこう訴えた。

 「ここでは、国家が安泰であるか、危険にさらされるかは、政治が正しいか否かによるのであり、仏法の教えの正邪は、経文という明鏡によるのであると述べられております。

 政治の善し悪しは、人びとが生き、幸福になっていくうえで、極めて大きな役割を果たしています。

 その政治が民衆を忘れ、政治家の権力欲や名誉欲、あるいは、派閥の力学で左右され、理念も慈悲もない政治が行われていけば、民衆は不幸です。

 私は、ある政界の指導者に、こう言いました。

 『私たちは、政治を支配するなどといった考えで、同志を政界に送り出したのではありません。学会の目的は、どこまでも、民衆の幸福と、世界の平和にあります。

 そのために、日々、心を砕き、行動している、最も真面目で誠実な 宗 教団体が創価学会です。

 学会の国を愛する精神、民衆の味方として友の幸福のために戦っている健気にして厳粛な姿、社会を繁栄させ、国際的にも貢献しようという情熱、そして、人類の幸福と世界の平和を可能にする生命の大哲学を、私どもがもっているという事実……。

 それを正しく認識するならば、学会を日本の宝として称賛し、大切にせざるを得ないでしょう』」

 

 

加速 二十六

 

 山本伸一の講義は、進むにつれて、ますます情熱と力がみなぎっていった。

 「私は、更に、その人にこう言いました。

 『私たちは、社会の指導者といわれる人たちが、創価学会の真実を正しく理解することを願っています。

 ところが、その指導者たちが、流言飛語に惑わされ、学会に偏見をいだき、中

 傷し、抑えつけ、時には、学会を解散させようと策動する。

 善良な民衆の、正しい力、偉大なる力を封じ込めようとする政治家が多くなるならば、日本の国は衰亡していくに違いありません。ゆえに、私たちは、そうした悪しき権力とは、断固、戦っていかなくてはならないのです』

 ともあれ、民衆を忘れた慈悲なき政治では、人びとの幸福はあり得ない。しかし、ただ、その現実を嘆いているだけでは、事態は変わらない。

 ですから、私どもは、公明政治連盟をつくり、慈悲の精神を政治に反映することのできる同志を、政界に送ろうとしているのです。

 もし、現在の政治家が、本当に慈悲の心をもって、民衆と直結した政治を行っているなら、あえて、私たちが、同志を政界に送る必要はないかもしれません。だが、そうした政治家がいない以上、誰かがやらなくてはならない。そこに、私どもが立ち上がらざるを得ない理由があります。

 次に大聖人は、各宗派が仏法を説いているが、その教えが邪であるか、正しいかは、どの経典を拠り所にしているのか、経文という明鏡に照らして判断しなさいと、仰せになっているのです。

 経文の高低浅深は、天台大師によって明確にされている。そして、法華経こそが最高最大の教えであることを明らかにされた。

 では、私たち創価学会の根本は何か。それは、その法華経を行じられた、末法の御本仏日蓮大聖人の御指南であり、御書です。

 無責任な評論家の言葉でもなければ、週刊誌などの批判記事でもない。誰がなんと言おうが、規範として従うべきは御書の仰せ以外にはありません。

 創価学会は、また、正しい信仰は、永遠に御書が根本であると申し上げておきたいのであります」

 北海道の地区幹部の多くは、山本会長の講義を直接聴くのは、初めてのことであった。

 誰もが伸一の確信に胸を打たれた。御書に認められた大聖人の御言葉が、過去のものではなく、現在の自身への指導として、皆の心を射貫いた。

 

 

加速 二十七

 

 山本伸一の北海道指導は一泊二日であったが、伸一はその間、間断なく働き、食事の時間も、幹部との打ち合わせにあてた。

 また、わずかな時間を見つけては、書籍などに激励の言葉を認めて贈った。

 この多忙なスケジュールは、全国どこへ行っても変わらなかった。一人でも多くの友と会い、励まし、奮起を促そうとする彼は、一分一秒たりとも、無駄な時間を過ごしたくはなかったのである。

 北海道指導から帰った伸一は、四月十七日には、東京の新宿区体育館で行われた青年部主催の初の柔・剣道大会に出席した。

 新しき時代を担いゆく青年たちの行く手は、険しく、そして、はるかなる道である。その道を踏破していくには、強き精神と頑健な肉体が必要となる。

 心身ともに、鍛え、錬磨するために、青年たちが企画した、この柔・剣道大会を、伸一は、新世紀の大空に舞いゆく若鷲の雄姿を思い描きながら、見守ったのである。

 そして、二十日には、立川市に誕生した、立川会館の落成式に参列した。

 立川は米軍基地の町であった。伸一は、そこに、武力によらず、人間の精神の力の勝利をもって、平和を建設しようとする同志の活動の拠点が誕生したことを喜びながら、立川の友の活躍を祈った。

 伸一の会長就任二周年となる五月三日は、目前に迫りつつあった。この日には東京・両国の日大講堂で、第二十四回の総会が開催されることになっていた。

 布教の大勝利をもって、五月三日を迎えよう――それが、全同志の決意であった。潮が満ちるように、弘教の歓喜の波は広がっていたのである。

 全国各地の座談会には、常に新来の友の姿があり、どの座談会場でも、入会を祝う拍手が賑やかに鳴り響いた。

 そして、その新入会のメンバーが、次の座談会には新しい友人を連れ、喜々として集って来た。

 この布教の歓喜の連鎖ともいうべき現象が、日本列島を包んでいたのである。

 すべては上げ潮の様相を呈していた。

 首脳幹部たちは、学会の前進を手放しで喜び、理事長の原山幸一などは、伸一との打合わせの席で、しばしばこう語った。

 「もう広宣流布は時代の趨勢ですな。こんなにすごい時代が来るなんて、予想もしませんでした。学会は何があっても盤石ですね」

 その責任感なき楽天ぶりに、伸一は苦笑せざるを得なかった。

 

 

加速 二十八

 

 会長就任二周年の総会を前にして、山本伸一は、この二年間の歩みを振り返ってみた。

 わずか二年のことではあるが、彼は、新しき広布の扉を開き続けてきた。それだけに、長いといえば、あまりにも長い時間を経てきたようにも思えたし、短いといえば、一瞬のことのようにも感じられた。

 学会の会員世帯は、二年前の百四十万世帯から二百六十万世帯へと、二倍近い発展を示していた。それに伴って、支部の整備も進み、六十一支部から二百五十九支部の陣容となった。また、青年部は部員数三十万人から七十五万人に至ったのである。

 しかも、広宣流布の潮は世界に広がり、伸一自身、この二年間で、南・北アメリカ、東南アジア、ヨーロッパ、中東と、海外指導は四回を数え、二十四カ国・地域を訪問し、各国の同志の激励にあたってきた。

 そこで蒔かれた種が芽を出し、海外(沖縄を除く)には、二総支部七支部が誕生したのである。

 また、会員世帯の広がりだけでなく、教学部員も、二年前の一万七千人から十一万人を上回るにいたり、六倍以上の飛躍を遂げていた。その仏法研鑽の息吹は、新しき時代を創造する、民衆の大哲学運動となったのである。

 この二年間は、伸一の構想通りの広宣流布の伸展であり、大勝利の歩みであったことは間違いない。

 では、その流れを、更に確実なものにしていくために、いかなる指導性が求められるのかを、伸一は考え続けた。

 ――同志の多くは、病苦や経済苦、家庭不和などの悩みを抱え、その解決の方途を信仰に見いだし、懸命に弘教に励んできた。

 しかし、学会の広宣流布の運動は、単に自分個人の苦悩の解決だけに終わるものではない。一人一人が広く社会に目を開き、人間の勝利の時代を建設していくことにある。

 つまり、仏法を根底にした、平和社会の建設であり、世界に真実の人間文化を開花させることに、通じていかなくてはならないであろう。

 真実の宗教は、自身の精神の救済にのみとどまるものではない。個人を覚醒させ、社会的使命の自覚を促すものだ。

 伸一は、この総会では、学会のめざす広宣流布の、その目的を再確認し、各人が社会建設の主役として立つ、旅立ちの集いにしたいと思った。それは、未来への大いなる希望と、前進の軌道を示すことになるはずである。

 

 

加速 二十九

 

 どの顔も、晴れやかであった。どの顔も、紅潮していた。風に揺れる街路樹の青葉にも、喜びの鼓動があった。

 一九六二年(昭和三十七年)五月三日、第二十四回総会の会場となった東京・両国の日大講堂周辺には、早朝から、長い人の列ができていた。

 午前六時二十分、入場が開始されると、会場は瞬く間にいっぱいになった。

 やがて、遠く海を越え、アメリカ、東南アジア、ヨーロッパから参加した海外メンバーが入場。会場の大鉄傘を揺るがさんばかりの拍手が轟いた。

 午前八時過ぎ、音楽隊、鼓笛隊、合唱団の高らかな学会歌の調べが流れると、薄曇りの空は晴れ、高窓からは、まばゆい光が差し込み始めた。

 午前十時前、「威風堂々の歌」の大合唱のなか、学会本部旗に続いて、会長山本伸一をはじめ、理事室の幹部らが入場し、第二十四回総会が開会された。

 秋月英介青年部長の「開会の辞」、関久男副理事長の「会長就任二年の歩み」の話の後、山本会長から、バンコク、香港などの海外支部に、支部旗の授与が行われた。

 集った同志は、世界への広宣流布の広がりを、肌で感じた。

 ついで、ヨーロッパ連絡責任者の川崎鋭治が、海外会員を代表して、あいさつに立った。

 川崎は半年前、ヨーロッパに会長一行を迎えた時と比べると、風貌にも、どことなく貫禄が備わり、広宣流布のリーダーとしての成長を感じさせた。彼は、感慨を噛み締めるように、頬を紅潮させて語り始めた。

 「私は、山本先生の会長就任二周年となる、本日のこの意義ある総会に、ヨーロッパを代表して参加できましたことを、無上の光栄とするものであります。

 本日の総会には、アメリカ総支部からは百二十六名が、さきごろ支部が結成されましたバンコクと香港からは計五名が、また、台湾からも六名のメンバーが、歓喜に燃えて参加いたしております。

 正直なところ、私ども海外のメンバーは、会長の山本先生が、自分たちの国に来てくださるのは、まだまだ遠い先のことであると思っておりました。

 ところが先生は、会長に就任して五カ月後には、南北アメリカを訪問され、この二年間のうちに、東南アジア、ヨーロッパ、中東など、相次ぎ世界を回られ、私たちを励ましてくださったのであります」

 

 

加速 三十

 

 川崎鋭治は、感激のためか、何度も声を詰まらせながら語っていった。

 「世界各国で、山本先生が蒔かれた広宣流布の種子は、わずかな期間に、深く根を張り、芽吹き始めております。

 一昨年、先生をお迎えしたアメリカ総支部は、当時、四、五百世帯ほどであったものが、現在では、五支部三千世帯と、飛躍的な発展を遂げております。

 また、東南アジア総支部は、二支部千五百世帯となっております。

 更に、ヨーロッパは、先生が訪問された時には、十世帯ほどのメンバーがいるにすぎませんでしたが、この六カ月の間で、四十三世帯になったのであります。

 今や座談会も活発に開催され、パリの芸術家をはじめ、さまざまなメンバーが集ってまいります。また、西ドイツ(当時)には炭鉱で働く七人のメンバーがおり、仕事でも着実に実績を上げ、職場の大きな信頼を勝ち得ています。

 世界広布の幕は、今、山本先生の手によって開かれました。これからの新しき開拓には、予期せぬ試練もあれば、苦労もあると思います。

 先生は、ヨーロッパ訪問の折、『先駆者というのは辛いものだよ。しかし、だからこそ、やりがいもあるし、功徳も大きい』と、指導してくださいました。その言葉を心に刻んで、世界広布に邁進していくことを誓い、私のあいさつとさせていただきます」

 山本伸一は、川崎が広宣流布のリーダーとして、たくましく育ちつつあることを喜び、真っ先に拍手を送った。

 伸一は、命の限り、世界の各地に、平和と友情の広布の道を開き続ける決意でいた。しかし、その道を歩み、整え、更に広げる人がいなければ、再び草に埋もれてしまうことになる。

 だから、彼はヨーロッパの地にあって、川崎が立ち上がったことが、嬉しくてならなかったのである。

 伸一は、自分がいなくなったならば、広宣流布はどうなるかということを、常に考え続けていた。

 彼は、まだ三十四歳ではあったが、もともと病弱なうえに、一瞬一瞬、全力で疾走するかのように動き続けているだけに、いつ倒れてもおかしくはなかったからだ。

 それゆえに、伸一は、人材を欲していた。人材を見つけ、育てることに最大の力を注ぎ、人と会えば、一期一会の思いで、全魂を傾けて激励し抜いた。

 だが、そんな伸一の心を知る人は、誰もいなかったといってよい。

 

 

加速 三十一

 

 式次第は、各部の代表抱負に移った。

 学生部長の渡吾郎、女子部長の谷時枝、男子部長の谷田昇一、そして、総支部長の代表が、会長就任三周年への決意を披瀝した。

 更に、理事や教学部長のあいさつが続き、日達上人の講演となった。

 日達上人は、「本日、創価学会第二十四回本部総会にあたり、全会員の折伏の成果の偉大なるを、まのあたりにみて、深く敬意を表し、合わせてお祝い申し上げるしだいでございます」と、祝福の言葉を述べた。

 そして、世間でいわれる「無我の境地」について論及し、真実の無我とは、日蓮大聖人下種の南無妙法蓮華経を、身口意で信じ奉ることであると結論し、その信仰の場所こそが、常寂光の浄土であると強調。

 更に、現在、学会の会長が大願主となって、総本山に建設が進められている大客殿が、この常寂光の浄土の姿であることを語っていった。

 「今回の設計を見ますと、はからずも、客殿全体の形が御本尊様のお厨子のような形をしております。そうすると、私どもが客殿に集まって、南無妙法蓮華経を唱える姿は、御本尊様の為体その姿となるのでございます。

 まことに客殿も、その中に集まる人も、大聖人様の『阿仏房さながら宝塔・宝塔さながら阿仏房』(御書一三〇四)の金言のとおり、常寂光土の姿でございます。今、このような浄土が日一日と建設されつつありますが、まことに喜ばしいことであります」

 そして、参加者に、僧俗一致して広宣流布の願業に邁進しようと呼びかけ、話を結んだ。

 大客殿の意義を述べた日達上人のこの講演に、集ったメンバーは、供養の喜びと感激を噛み締めた。

 宗門は、自分たちの真心で寄進した大客殿を、永遠に宝塔として称え、大切にしてくれるに違いない――大聖人の信徒たる創価の同志は、誰もがそう信じた。誰もがそう確信していた。

 この総会には、当時、宗門の教学部長で、後に六十七世の法主となり、大客殿を取り壊した阿部信雄、すなわち日顕も出席し、壇上に座っていたはずである。

 彼が、日蓮正宗の僧侶として師と仰ぐべき日達上人の講演を、いかなる思いで聞いていたのかは知るよしもない。

 しかし、日達上人の時代に学会が寄進した総本山の建物を次々と取り壊し、日達上人の功績を否定する彼の行為は、師への重大な背反であることは断じて間違いない。

 

語句の解説

 ◎身口意

 身口意の三業のこと。一切の生命活動を、身業(動作、振る舞い)、口業(言語による表現)、意業(心で思う)、の三種類に分類したもの。

 

 

加速 三十二

 

 日達上人の講演に続いて、副理事長の十条潔 、理事長の原山幸一の話があり、いよいよ会長山本伸一の講演となった。

 「会長講演!」

 司会者の声が響くと、雷鳴のような拍手がわき起こった。参加者は皆、伸一の指揮のもと、伸一とともに戦い、労苦と勝利の大歓喜を分かち合ってきた同志たちである。

 皆、この二年の輝ける広布の歩みに、誇り高く胸を張り、瞳を輝かせて、伸一の話を待った。

 伸一は、まず、第二十四回総会が晴れやかに開催できたことに対して感謝の意を表した後、会長就任三周年への出発の決意を、力強く語った。

 「私は、来年の五月三日をめざし、三たび『詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん』(御書二三二)との御金言を、更に、更に深く胸に刻んで、皆様方とともに戦い、勝利への指揮をとってまいる決意であります。

 私ども創価学会は、どこまでも御本尊を根本に、日本の柱となって、個人の幸福のため、社会の繁栄のために、鉄の団結をもって、堂々と前進してまいろうではありませんか」

 山本会長の新しき前進への呼びかけに、参加者は、大拍手をもって応えた。

 伸一は、ここで、仏法の最高峰は法華経であり、なかでも、文底の法華経である日蓮大聖人の仏法こそ、最高最大の法であることを論じた。

 そして、仏法と文化の関係に言及していった。

 彼は、まず、紀元前三世紀のアショカ(阿育)大王による仏法を根底とした文化国家の建設や、紀元二世紀ごろのカニシカ(迦弐志加)王の時代とガンダーラ文化など、古代インドの事例を紹介した。

 更に、中国の天台大師が『摩訶止観』で明かした理の一念三千の法門の流布と唐の時代の文化、わが国における伝教大師の迹門の法華経の流布と平安朝の文化の興隆の事例を通して、正法の流布があるところ、偉大なる文化が花開くことを述べ、こう訴えた。

 「これらの事実は、正法が人びとの生き方の根底となり、王仏冥合の姿となっていくならば、いかに優れた文化が生まれ、平和で、安穏な社会を建設できるかを物語っております。

 しかも、正法のなかでも末法に流布すべき日蓮大聖人の仏法は、法華経の精髄であり、最高峰の教えであります。

 その大仏法を根底とした未聞の人間文化の大輪を咲かせ、民衆の幸福と社会の繁栄を築いていくのが、私たちの広宣流布の大運動であります」

 

語句の解説

 ◎アショカ大王など

 アショカ大王は、古代インド・マウリヤ朝の第三代の王(在位前二六八〜前二三二年頃)。仏教に帰依し、善政を行った。

 カニシカ王は、西北インドに興ったクシャン朝の最盛期の王。二世紀頃の人で、仏教を保護し、第四回仏典結集を行った。

 天台大師(五三八〜五九七年)は、中国天台宗の実質的な開祖。『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』の法華三大部を講説。法華経の理の一念三千を明かした。

 伝教大師(七六七〜八二二年)は、平安時代初期に活躍した、日本天台宗の開祖・最澄のこと。諸宗の誤りを正し、迹門の法華経を宣揚した。

 

 

加速 三十三

 

 山本伸一は、ついで、御聖訓を拝して、大聖人の仏法が興隆した社会の姿を述べていった。

 「日蓮大聖人は『如説修行抄』に、広宣流布の暁の様子を、次のように仰せになっております。

 『万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨壤を砕かず、代は羲農の世となりて今生には不祥の災難を払ひ長生の術を得、人法共に不老不死の理顕れん時を各各御覧ぜよ現世安穏の証文疑い有る可からざる者なり』(御書五〇二)

 つまり、すべての人が一同に南無妙法蓮華経と唱えるならば、人は自然災害によって苦しんだりせず、風は枝を鳴らすことなく穏やかに吹き、降る雨も土のかたまりを砕くことなく、万物の成育に適し、世も、中国古代の理想社会として伝えられる伏羲・神農(羲農)の帝王の世のような、平和で豊かな社会がつくられるとの意味であります。

 妙法による人間の生命の変革は、自然環境にも必ず及んでまいります。また、たとえ、台風など、激しい雨が降ることがあったとしても、信仰によって培われた英知は、災害に苦しむことのない、安全対策の整った社会の実現を可能にするともいえます。

 更に、人びとは、今生で不祥な災難にもあわず、健康で長生きできる方法を得ることができると、約束してくださっている。

 また、妙法を根本とした人生は、どこまでも幸福を満喫でき、人も妙法も、ともに不老不死であるという道理が実現する時が来るから、見てご覧なさいと言われているのです。

 そして、その時こそ、法華経の薬草喩品にある『現世安穏』という証文が、事実となって現れることは、いささかの疑いもないのであると、大聖人は断言されております。

 この幸福にして平和な社会の建設こそが、私どもの信仰の目的であります」

 人間を「考える葦」と言ったパスカルは、「空間によっては、宇宙は私をつつみ、一つの点のようにのみこむ。考えることによって、私が宇宙をつつむ」(注1)と述べているが、仏法は人間の一念が、宇宙を包むことを教えている。

 伸一は、悲哀の淵から立ち上がった創価の友に、われわれの一念によって、自己の人生はもとより、時代、社会が、全人類、全宇宙が変わっていくことを訴えたのである。

 それは“小我”から“大我”へと至る境涯の革命の号砲であり、民衆が真に歴史の主体者として立つ、覚醒の叫びでもあった。

 

語句の解説

 ◎パスカル

 一六二三〜六二年。フランスの思想家・数学者・科学者。晩年、病苦のなかで、「考える葦」である人間の、真の信仰を探究した思索を、死後にまとめた『パンセ』は有名。流体の圧力伝達の法則(パスカルの法則)の発見など、科学上の多大な業績がある。

 引用文献

 注1 パスカル『パンセ』前田陽一・由木康訳、中公文庫

 

 

加速 三十四

 

 会場を埋め尽くした参加者は、壇上の会長山本伸一を見つめ、その言葉を一言も聴き漏らすまいとするかのような、真剣な表情であった。

 伸一の声には、確信の響きがあふれていた。

 「今の日本の不幸は、民衆を幸福にし、恒久平和を建設していくための、確固とした理念、哲学がないことです。生命の尊厳を裏付ける哲学もなければ、慈悲の思想もない。人間の生き方や根本の価値を教える哲理を見失い、精神の骨格なき社会になってしまっております。

 ゆえに、政治にせよ、経済にせよ、あるいは教育にしても、確かなる展望が開けず、迷い、揺れているというのが現状です。今は経済的に豊かにはなりつつありますが、このままでは、やがて、精神は荒廃し、政治も、経済も、教育も、すべての面で行き詰まらざるを得ません。

 その日本の国を救う、精神の骨格、大理念、大哲学となるのが日蓮大聖人の仏法であると、私は断言したいのであります」

 大拍手が鳴り響いた。

 参加者は、自分たちの行っている弘教の社会的な意義の深さを、改めて認識していったのである。

 伸一は、言葉をついだ。

 「日本の未来を、また、二十一世紀の世界を考えるならば、わが創価学会の主張と実践を高く評価し、賛同しなければならない時が必ず来るであろうし、既に時代の底流は、そうした段階に入ったといえます。

 しかし、そうであればあるほど、学会への嫉妬も強まるでしょうし、無認識や偏見ゆえの批判も起こるでありましょう。更に、広宣流布を阻もうとする、さまざまな謀略もあるに違いありません。

 だが、何があっても、日蓮大聖人の御金言を、御本尊を信じて、いかなる権力にも、いかなる迫害にも、決して屈服することなく、確信と勇気をもって、崇高なる信心を貫き通してまいろうではありませんか。

 最後に、皆様方のますますのご健闘をお願い申し上げるとともに、ご健康とご一家の繁栄を心からお祈り申し上げ、私の話とさせていただきます」

 賛同の大拍手が日大講堂のドームを揺るがした。

 人間のための文化と社会を建設しゆく決意が、集った同志の胸中に、炎となって燃え上がった。

 第二十四回総会は、学会歌の合唱、閉会の辞をもって幕を閉じ、創価学会は、会長就任三周年に向かって船出したのである。

 

 

加速 三十五

 

 総会を終えた参加者は、薫風のなか、勇んで、再び布教を開始していった。

 “私たちは、ただ自分の小さな悩みを解決するためだけに、信心をしているのではない。御書に仰せの、安穏な理想社会を、この世に築くという、もっと崇高で大きな目的のために、信心に励んでいるのだ”

 そう思うと、同志は皆、胸が高鳴るのを覚えた。

 信仰は人格を陶冶し、陶冶された人格は、社会建設の使命の自覚を促すものである。

 総会が行われた、この五月三日の夜のことであった。東京・荒川区の常磐線三河島―南千住間で、痛ましい大惨事が起こった。

 午後九時三十五分ごろ、常磐線の三河島駅を過ぎたところで、下り貨物専用線を走っていた貨物列車が、赤信号にもかかわらず、そのまま直進して車止めに激突し脱線。先頭の機関車が隣の下り本線を半ばふさぐように傾いた。

 その直後、三河島駅を出て、下り本線を走って来た取手行電車が、脱線した機関車とこすり合うようにして追突したのだ。この下り電車の一、二両目が脱線し、今度は、更に隣の上り線路をふさいだ。

 取手行電車は折から連休とあって、行楽帰りの人などで込み合い、定員の一・五倍にあたる約千二百人が乗っていた。

 乗客は、次々と脱線した電車から降りて、上り線路を歩き始めた。

 その時、上野行上り電車が猛烈なスピードでやって来て、脱線した下り電車の車両に正面衝突したのだ。二重衝突である。

 そして、この上り電車も前部の四両が脱線。そのうちの三両は、約七メートルの土手の上から横倒しになり、土手の脇に建つ二階建て倉庫を押しつぶした。しかも、この電車は、線路の上を歩く乗客を跳ねながら突進していったのである。

 一つの事故が、また事故を生み、それが更に、大事故につながったのだ。

 こうして三河島事故は、死者百六十人、重軽傷者三百二十五人を出すに至ったのである。

 実は、この五月三日には、午前一時過ぎにも、東北本線古河駅構内で、旅客列車に貨物列車が追突し、四十人の重軽傷者が出る事故が起こっていたのである。その原因は、機関士の居眠りによる信号無視であった。

 国民の人権を守ることを保障した憲法の記念日に、未明と夜の二回にわたって事故が起こり、しかも、三河島の事故は、無残極まりない大惨事となってしまったのである。

 

 

加速 三十六

 

 山本伸一は、三河島の事故のニュースを耳にすると、直ちに、会員やその家族に、事故に遭遇した人はいないかを調べるように指示した。

 テレビのニュースが伝える、死者、負傷者の数が、時とともに増え、事故の全容が判明していくにつれて、彼は、強い悲しみと怒りを覚えた。

 伸一は、事故に遭った会員の家族を全力で激励する一方、何がこれほどの大惨事を引き起こしてしまったのかを考えていった。

 当時、国鉄(現在はJR)では労使問題が紛糾し、しばしばストライキや信号所を占拠する事態が生じていたことから、そうしたなかで国鉄職員の綱紀の緩みが生まれ、この事故につながったと指摘する評論家もいた。

 伸一は思った。

 ――三河島の二重衝突事故の、そもそもの原因は、貨物列車の機関士の信号の誤認にあった。古河の事故にもいえることだが、不注意ではすまされぬ重大な過失であり、そこには、機関士の気の緩み、油断があったことは間違いない。

 また、最初の衝突の後、上り電車が来るまで数分の時間があったが、なぜ、その間に、発煙筒をたいたり、信号を赤に切り替えるなどして、電車を止めることができなかったのか。

 関係者の誰かが、そうした行動をとっていれば、これほどの大惨事になることはなかったはずである。

 しかし、誰もそれをしなかったということは、職員一人一人に、人命を守るという意識が乏しく、指導も徹底されていなかったことになる。つまり、非常事態が生じた時の、安全確保の態勢の不備である。

 すると、現場で働く人たちだけの問題ではなく、管理する側の責任も極めて大きい。

 また、見方を変えれば、いかに神経を働かせ、注意を払っていたとしても、ミスをしてしまうのが人間ともいえる。

 したがって、ミスを事前に防止でき、たとえミスがあっても、事故を防げる対策が施されていなければならない。たとえば、居眠り運転防止のための警報装置や、赤信号の場合の自動制御装置などは、設置されていてしかるべきである。

 全線に自動制御装置などを設置するには、資金面での相当な負担があろうが、ひとたび事故が起これば、人命に及ぶだけに、最優先していて当然である。

 輸送量が増大すればするほど、安全面の設備にも力を注ぎ、事故を防ぐのは、国鉄当局の責任であり、義務といってよい。

 

 

加速 三十七

 

 このころ、国鉄(現在のJR)は「夢の超特急」といわれた、東海道新幹線の建設に取り組んでいた。この新幹線が開通すれば、移動に要する時間は大幅に短縮され、便利になるには違いない。

 それはそれで、大事なことではあろうが、最優先されるべきは安全であり、人命を守ることである。

 また、二年後の一九六四年(昭和三十九年)の東京オリンピックを目指して、道路やビルの建設も急ピッチで進み、日本の経済は目覚ましい発展を遂げつつあった。だが、山本伸一は、経済ばかりが先行し、人命を守るという最も肝心なことが見失われつつあることが、心配でならなかった。

 経済を至上の価値とし、利潤の追求に狂奔して得られるものは、人間の真実の幸福とはほど遠い、砂上の楼閣のような、虚構の繁栄でしかないからだ。伸一は、人びとの精神が蝕まれ、拝金主義に陥り、殺伐とした心の世界が広がっていくことを恐れていた。

 国や社会の豊かさ、文化の成熟度は、単に物質的な側面や経済的な発展だけで推し量ることはできない。人命や人権を守るために、どれだけの配慮があり、いかなる対策が講じられているかこそ、実は最も根本的な尺度といえよう。

 そして、人命、人権を守る国家、社会を築くには、生命の尊厳という理念、哲学が絶対の要請となる。

 伸一は、総会の席上、人間の幸福と平和を実現しゆく、確固たる理念、哲学がないことが、今日の日本の不幸であると語ったが、この三河島事故は、その端的な現れでもあった。

 彼は痛感した。

 “哲学という精神の骨格のない現代の日本は、何を根本の価値とすべきか、何を最優先すべきかがわからなくなってしまっている。これは、放置しておけば大変なことになる。この事故は未来への警鐘だ”

 暴走する時代の濁流を防ぐには、堅固な精神の堤防を築き上げることだ。

 伸一は、人間の精神の勝利のために、仏法という真実のヒューマニズムの哲理を、一日も早く、流布しなければならないと思った。彼は、広宣流布の前進の加速の必要性を、強く実感したのである。

 全国の同志も、この三河島事故に、仏法の生命哲理が社会に深く根差していれば、こんな事態には至らなかったのではないかと、痛恨の思いをいだいた。

 そして、広宣流布への使命と責任を、更に深く自覚していったのである。

 

 

加速 三十八

 

 山本伸一の会長就任三周年へのスタートを切った五月は、弘教の勢いが一段と高まった。

 伸一は、この月、東京の各本部の幹部会に相次ぎ出席し、広宣流布の勝利を決する本陣・東京の強化に力を注いだ。

 また、その一方、東北本部幹部会(八日)、埼玉総支部幹部会(十日)、浜松会館の落成式(十二日)、九州本部幹部会(二十日)、神奈川第一・第二総支部幹部会(二十二日)、千葉・群馬・茨城三総支部合同幹部会(二十三日)にも出席し、フル回転で激励、指導にあたった。

 しかも、行く先々で、可能な限り地区部長等の幹部の指導会を開き、「経王御前御書」「諫暁八幡抄」(東北)、「船守弥三郎許御書」(浜松)、「曾谷入道殿御返事」(九州)など、御書の講義を行っていった。

 伸一は、会長就任三周年への開幕にあたり、この五月、六月で、全国を一巡し、各地の同志とともに、再び新出発することを決意していた。

 人を燃え上がらせるためには、まず、リーダーが自らの生命を完全燃焼させることだ。人を動かすには、自らが動き抜くことだ。御聖訓には「大将軍をくしぬれば歩兵臆病なり」(御書一二一九)と。組織といっても、リーダーの一念の投影である。

 ゆえに、指導者は自らに問わねばならない。勝利への決定した心はあるか。強盛なる祈りはあるか。燃え上がる歓喜はあるか。そして、今日もわが行動に悔いはないか――と。

 それは、伸一が戸田城聖から教えられた将軍学でもあった。

 伸一も、同志も、青葉の季節を力の限り走り抜き、五月二十七日には、東京体育館で本部幹部会が開催された。

 席上、発表された五月の弘教は十万八千余世帯であり、なんと、この「勝利の年」の年間目標であった二百七十万世帯を、わずか五カ月にして、悠々と突破してしまったのだ。電光石火の快進撃である。

 広宣流布の前進は加速度を増し、三百万世帯の達成まで、もう一歩となった。

 参加者は、意気軒高であった。今、誰もが、広宣流布の潮がひたひたと満ち、精神の枯渇した日本の国を、潤しつつあることを実感していた。

 そして、それぞれが主役となって、社会の建設に携わる喜びと躍動を噛み締めていたのである。

 この日の幹部会で、伸一は、最後に「新世紀の歌」の指揮をとった。それは、広宣流布の大空への、勇壮なる飛翔の舞であった。

(この章終わり)

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